日本人を形成する
諸民族の民族意識

The ethnic consciousnesses of
the ethnic groups which form
the Japanese people

ウェザロール ウィリアム
(William Wetherall)

世界人権宣言40周年記念国際人権シンポジウム
国際人権と在日韓国・朝鮮人
主催:国際在日韓国・朝鮮人研究会(国際韓朝研)
大阪、1988年12月10日

Symposium to Commemorate the 40th Anniversary of the Universal Declaration of Human rights
International Human rights and Koreans in Japan
Sponsored by the International Association For the Study of Koreans in Japan (IASK)
Osaka, 10 December 1988


目次

要約
報告
日本人の民族性を示す用語に関する後書


要約

このシンポジウムの報告を依頼されたとき、「日本人の民族意識」という題が先に提案されていたので、そのまま承認いたしました。しかし、後で考えてみると、意味が分からなかった。というよりも、この題の常識的な意味は、分かったが、この意味が、日本の民族的正体をかなり歪めていることも分かった、といった方が正しい。つまり、殆どの場合に使われる「日本人の民族意識」という表現は、「単一民族としての日本人の民族意識」を意味する。但し、日本人は単一民族ではないので、この常識が間違っている。

「郷に入っては郷に従え」という諺がある。『広辞苑』はこれを、人は住んでいる土地の風俗・習慣に従うのが処世の法である、と説明する。英語の When in Rome, do as the Romans do に等しい。ただローマには様々なローマ人がいるので、どのローマ人の行為を真似ればよいのか、という問題がある。

日本という郷にも、様々な人々が住んでいる。日本人もいるし、無国籍者を含む非日本人もいる。日本人といっても、色々ござんす。赤、白、黄色がいれば、黒も茶色も咲いている。なぜかと言うと、日本は地理的に国土も人口も大きな国でありながら、民族的な歴史も古くて複雑な国である。

このような日本観に対して、「うそ!」とすぐ反発する人が 多い。内外人を問わず、殆どの学者やジャーナリスト等は、日本というとすぐ単一民族国家を連想するからである。これは知識によってできたイメージではなく、むしろここ百数十年の間に、政治的に作られた文化論、つまり「日本人論」の悪影響による。

日本が単一民族国家だという神話は、どれほど常識化されてきたのか、一昨年の中曽根「失言」よりも、去年行われ、今年発表されたNHKの世論調査の内容から、はっきりと理解できる。「国民」の 2,497 人 の 76 %は、 「日本民族はすぐれた民族だと思います」、と答えた。

しかし、日本憲法がうたう日本国民や国籍法が定義する日本国民、つまり俗に言う日本人は、民族でも人種でもなく、単なる日本国籍を有するものに過ぎない。そして、この日本人は、アイヌ系日本人がいう Shamo(和人)や沖縄系日本人がいう Yamatunchu (大和の人)という大和系日本人ばかりではなく、肌、目、毛の色や、顔、体、名前の形、信仰、言語も多彩な人間がこの広い列島、いわば小さな大陸に共存している。

だから、この報告の題を「日本人を形成する諸民族の民族意識」に変えさせて頂きたいと思う。そして、これを、The ethnic consciousnesses (複数形)of the ethnic groups(複数形)which form the Japanese people(単数形)、と英訳したいのである。


報告(第1部)

このシンポジウムの報告を依頼されたとき、「日本人の民族意識」という題が先に提案されていたので、そのまま承認いたしました。初めは、これは、私にとって都合の良いテーマだ、と思いました。なぜならば、日本の少数民族の研究に、私の成人以降の人生の半分ほど、費やしてきたからです。しかし、後で、「日本人の民族意識」の意味を分かっていないということに気が付いたのです。

私の周囲の人々は、「日本人の民族意識」の意味がハッキリしているかのように、この言葉を使っています。私の行き着けの床屋さんも、天気のことを話すように、この言葉を気軽に使っています。社会学者も、定義しようもせずに、この言葉を使っています。私も、かつては、日本人や民族、意識などの単語の意味は、指紋押捺や外国人登録証明書と同じように、当り前のことだ、と頭から決めつけていました。その時は、日本や日本の人々(つまり日本に住んでいる全ての人たち)を理解するために、教科書や辞書、マスコミなどのような、栓をひねればたやすく涌き出るステレオタイプの泉に、私が頼っていたころでした。

以前はその通りだと思っていましたが、今は理解に苦しむ、もう一つの表現があります。 それは、「郷に入っては郷に従え」という諺です。これは、古典ラテン語の文句で、英語の When in Rome, do as the Romans do の日本語版です。中国語や朝鮮語にも、入境(国)問禁、入郷(国)問俗、入郷循俗、適応環境などもあります。

これは、なかなか名案だと思った時もありました。日本にいるときは、日本人のやり方に従うべきだと。日本人も人間だし、私も人間だから、日本人のやり方に従った方が簡単だと。それからしばらくして、そう思うようには簡単ではないことを発見したのです。

例えば、私が知っているほとんどの日本人は、指紋を取られたことがありません。そして、そのほとんどの日本人のようになりたいが為に、私も、指紋押捺をしないことにしたのです。しかしながら、それは出来ない、私は違うのだから、と当局に言われたのです。私は外国人で、そして、社会管理派の官僚しか分からない理由で、外国人には、指紋押捺をすることによって自分が本当に外国人であるということを証明する義務がある、と言われたわけです。

それは、戸籍がないということ何らかの関係があったのです。日本人だけが、戸籍を持てるのです。もし、私に戸籍がなければ、私は日本人ではない、ということなのです。そして、もし日本人でなければ、私は、外国人なのです。しかし、それを証明するためだけに、私は、自分の指紋を提出しなければならなかったのです。

以前は、天皇陛下と私には、なんの共通点もないと思っていました。ある時、私達は、同類であるということを知りました。それは、皇族にも、戸籍がないということです。したがって、私と同じく、投票も立候補もできません。しかしながら、天皇陛下も含む22人(報告時現在)の皇族は、在日外国人である私と独立戦争以前のアメリカ人のように、政治に参加できないのに税金はちゃんと払わなくてはならないのです。そして、一方では、指紋押捺をしないということを除いて、外国人のように扱われているのです。

話は戻りますが、私は、その内、自分自身に問うようなりました。あのこと技のように、ローマに入ればローマ人に従うべきなのか、それとも、日本にいれば日本人に従うべきなのか。もし従うべきでしたら、一体、どういうローマ人あのか、どういう日本人なのか。醜いローマ人なのか、或は美しいローマ人なのか。良い日本人なのか、悪い日本人なのか、それとも普通の日本人なのか。少数者を差別する日本人か、或は差別しない日本人か。アイヌ系日本人か、大和系日本人か。中曽根康弘前総理大臣か、裕仁天皇か。

最近、私は、この報告のテーマである「日本人の民族意識」でも使われている「日本人」の意味について、同じ質問をしはじめました。どの日本人の民族意識かというように。

昭和62年のNHKの「日本人の国際意識」の調査を例にとりあげてみましょう。調査結果は、今年の1月25日、NHK教育テレビの夜の番組 『ETV8』の「日本人は世界をこう見ている:日本人の国際感覚」という題で、要約され放送されました。そして、完全な調査結果は、放送研究に関するNHKの月刊レポートである『放送研究と調査』の昭和63年5月号に掲載されました。

第20問とその答えは下記の通りです。

あなたは、一口にいって、日本民族はすぐれた民族だと思いますか。
それともそうは思いませんか。リストのなかからお答えください。

1. 非常にすぐれた民族だと思う         28.2 %
2. 比較的すぐれた民族だと思う 47.9 %
3. あまりすぐれた民族だとは思わない 6.5 %
4. すぐれた民族だとは思わない 2.0 %
5. 民族に優劣はない 13.1 %
6. わからない・無回答 2.4 %

昭和58年と昭和59年のある調査によると、調査対象となった東京の二つの区の内、80。0%以上の人が、「日本人は世界で優れた民族である」、と答えているのです。

他にも、「日本人」という単語を「民族」として使っている調査をたくさん見つけることができます。

調査の質問を作成する上で、まず、第一のルールは、誰もがすぐに理解できる、簡単な言葉を使うということです。ですから、NHKのような組織が、「日本人」と「民族」は等しいと考えるとき、自分が日本人だと思っている人々の大多数は自分が民族を形成することも信じてる、とも計算されているに違いありません。

そのような「日本人」と「民族」が同一であるという暗黙の考え方は、日本政府の官公使が、日本は単一民族国家だと発言するたびごとに、明白になってきます。この表現は、同種同質のイメージ、つまり一つの民族、一つの言語、一つの文化、それに一つの歴史的体験というイメージを連想します。

これらの全ては、何年か前には、私にとって、合点があっていました。他の人たちのように、私もまた、月並みの日本の見解しか持ち合わせていなかったのです。カリフォルニア大学バークレー校の人類学コースで、私は、日本の少数民族や他の社会的少数者について、かなり学びました。それにもかかわらず、民族を示すことが極めて自然であるように、「日本人」という単語を使い続けていました。

現在、私は、一般の人々、特にジャーナリストや学者を説得しようとしているのです。何故かというと、彼らが、「日本人」という言葉を民族という意味で使うたびに、1947年に公布された日本国憲法の文字や精神に反しているからです。その第14条によると、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信仰、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」、と保証されています。それに、日本国民になるための条件を規定する国籍法では、生まれながら、又は帰化を通じても、人種や他の民族的な特徴について述べている点は、どこにも見あたりません。

日本国憲法の権利を真剣に受け取る人は、「日本人」という単語の使い方を、法的な意味に限定するべきだと、私は思います。日本国籍を持つ人なら、その人の民族性などと全く関係なく、その人は日本人であるから。

大多数の日本人は、いくら自分が大和民族とでもいう単一民族の一員だと思い込んでも、これは法的な根拠のない、ただ差別を引き起こす単なる錯覚または架空に過ぎない、と私は思います。


報告(第2部)

ここでは、政府やマスコミ、そして少数者団体などが、民族性と国籍との区別を、どのようにハッキリし損なっているか、を証明するいくらかの実例を取り上げたいと思います。

外務省国際連合局人権難民課の『市民的及び政治的権利に関する国際規約第40条に基づく[第1回]報告』(仮訳、1980年11月14日)に、「本規約に規定する意味での少数民族はわが国に存在しない」、と 書いてあります(p. 32)。しかし、その第2回報告(仮訳、1988年3月24日)は、「・・・アイヌの人々の問題については、これらの人々は、独自の宗教及び言語を保存し、また独自の文化を保持していると認められる一方において、憲法の下での平等を保証された国民として上記権利の享有を否定されていない」、と書いてあります(p. 54)。

マスコミは、この第2回報告が、アイヌは一つの少数民族であると認識したと伝えていました。『朝日新聞』なども、この報告が「民族」という言葉を使った、という印象さえ与えました。が、実際は、そうではなかったのです。外務省が最も公式だと考えている英語版には、the people of Ainu という誤りもあります。これは、不完全で、意味の不明な英語です。「アイヌの人々」のつもりでしたら、Ainu people となる筈です。「アイヌ民族」ならば、the Ainu people または the Ainu race (または ethnic group )となります。同じ民族的なニュアンスを持つ「アイヌ系の人々」は、(the) people of Ainu descent (または ancestry)となります。

いずれにしても、「アイヌの人々」という表現から私が強く受ける印象は、日本政府が、主なアイヌ団体の援助をうけながら、「民族」という言葉を避けるために、曖昧な用語を求めている、ということです。「アイヌ民族」の代わりに「アイヌの人々」がよいのか、と聞いた私の手紙に対して、札幌市の社会法人北海道ウタリ協会から、外務省の第2回報告のなかの「アイヌの人々」という言葉は、「日本語表現では人々となっておりますが、日本政府もアイヌの独自性を認めておりますし、当協会としてもアイヌ民族として主張していますので、英訳でもアイヌ民族として理解し頂きたく考えております」、という回答(1988年9月上旬)を頂きました。しかし英語では、「人々」を、「民族」(つまり race か ethnic group)を意味する people にする訳にはいきません。誤訳といったよりも、まぎらわしい、不正直な、人をだますような翻訳です。もしウタリ協会が、「アイヌ民族」という表現をそのまま使いたがらない外務省などの婉曲を認めれば、「単一民族国家」という歪曲も許さなければならないだろう。

しかし、日本の諸民族の一部を積極的に「民族」と呼ぶ日本政府機関があります。大阪府吹田市の国立民族学博物館は、アイヌなどの北方民族を 「民族」として認めています。この博物館から私が受け取った手紙によると、 folklore の 「民俗学」より、むしろ ethnology の「民族学」は、この博物館の命名に対して適当なので選ばれたのです。なぜかというと、この博物館の案内書(1988年3月発行)のなかで、これらの用語がよく定義づけられているように、前者の「民俗学」は、「日本の農山漁村に伝えられる諸慣習について研究をする学問」に過ぎないのに対して、後者の「民族学」は、「世界の民族集団の社会や文化の比較学問」を意味するからです。

この定義の基準は、普遍性の弱い、日本中心主義性が強いのですが、国立民族学博物館の展示の区別基準にも、大和民族的な差別観念があります。この博物館の名前が示すように、その世界的な展示品は、地域と民族によって構成されています。東アジア展示は、四つの展示に分けられています。朝鮮半島の文化、中国地域の文化、アイヌの文化、そして日本の文化といった具合いです。朝鮮文化や中国文化はともかく、なぜアイヌの文化と日本の文化が区別されているかというと、国立民族学博物館編集の『国立民族学博物館案内』(財団法人千里文化財団1986年発行)は、「アイヌは、伝統的に北海道を中心にサハリン(樺太)南部やクリール(千島)列島、さらに本州北端におよぶ広大な夏緑広葉樹林帯地域を、みずからの世界としてきた」(p. 161)、と説明しています。

なお、国立民族学博物館編集の『国立民族学博物館十年史』(同機関1984年発行の非売品)によると、「アイヌ文化展示にあっては、アイヌを日本のなかの少数民族と位置づけ、同じく国内に居住するウィルタ (オロッコ)やニブヒ(キリヤーク)など北方少数民族も同じセクションで扱うことにした」(pp. 316-317)。つまり、中曽根元総理大臣の発言の二年前に、「日本はほぼ単一民族国家である」と今でも主張している文部省の一機関の発行物が、アイヌ系日本人のみならず、ウィルタ(オロッコ)[Uilta / Wilta (Orok)]系やニブヒ(キリヤーク)[Nivkhi / Nivx / Niγv (Gilyak)]系の日本人もいる、と積極的に認めているのです。

北海道ウタリ協会は、上記の手紙によると、この展示方法については、「日本文化とアイヌ文化を分けているのは、単に文化の違いを紹介してるものと考えております」、と問題意識の全くない立場を取っています。

大阪市の社団法人部落解放研究所は、『差別なく人権が守られた社会を求めて/日本政府による「市民的及び政治的権利に関する国際規約」第40条に基づく第2回報告・批判』(1988年6月)のなかに、「先住民族であるアイヌ」(p. 26)と書いてあるのに対して、その英語版は、これを「Ainu people」(p. 62)だけにしました。日本語版の「北方少数民族」も、英語版はこれを「northern minorities」だけにしました。しかし、どの文章でも、民族を「ethnic」と訳しています。また、「単一民族神話」を「myth of Japan as a mono-racial nation」としました。

北海道ウタリ協会が、国連人権委員会に提出した『Statement Submitted to The Sixth Session of The Working Group of Indigenous Populations』(August 1988)は、言語上の災難です。『アイヌ民族に関する声明先住民に関する国連作業部会に対する調停(第6会期1988年8月)』(1988年8月)というその日本語版は、細かいことにも気を配られていて、大変正確に書かれています。「日本人」や「アイヌ民族」のようなキーワードを絶え間なく使っているし、国籍と民族性の定義も明確ですから、常に、「日本人」には「アイヌ」が含まれているのです。不幸にも、外国に向いている英語版は、日本語版の多民族国家の精神を伝えるのに失敗しているのです。「アイヌ民族」(p. 2)は、ある場合では「the Ainu People」、また他の場合には the 無しの「Ainu people」(p. 2)に漠然となってしまっているのです。「日本民族」(p. 2)は「the Japanese nation」(p. 2)となっていますが、「色々な民族的グループ」(p. 2)はその一つが「アイヌ」(「the Ainu people」)であるといわれている「various racial groups」(p. 2)になっています。他では、「民族対策」(p. 3)は、「measures for the Ainu people as a nation」 (p. 3)と訳されています。

しかし、ウタリ協会の報告書の日本語版(大和語版というべきでしょうか?)のはっきり表現された多民族国家の主張に対する最悪の打撃は、「アイヌ民族と他の日本国民」(p. 3)や「アイヌ民族以外の日本人」(p. 4)のような表現が、英語版には、各々、「the Ainu and Japanese」(p. 3)や「not only Ainu people but also Japanese」(p. 4)、と訳されています。後者は、一ヶ所だけは、意訳として意味が合っている「non-Ainu Japanese」になっていますが、そのすぐ下に、「他の日本人」は「comparable Japanese」と誤訳されています。

注目すべきことがもう一つあります。文部省の文化庁が出版した『我が国の文化と文化行政』(昭和63年6月)という分厚い報告書の中で、日本の様々な少数民族やその言語と文化については、一言も陳述されていません。「ミンゾク文化財」という節の「ミンゾク」は、folklore の民俗で、ethnic の民族ではないのです。その違いは、一体何でしょうか。 folklore の folk は、ヒトラーのナチスも民族的な感覚を与える ドイツ語の Volk を語源にしています。しかし、英語の folk やドイツ語の Volk の意味を別として、なぜ文化庁が「民族」よりも「民俗」のほうを強調するのでしょうか。それは、文部省を初め日本政府は、大衆においては多民族国家意識を最小限にする願望が根強い為ではないか、と私は思います。いずれにしても、日本の中枢官僚が憲法の文字も精神も無視しながら単一民族国家のイデオロギーを中心とする日本人論を進め続けていることは、大和系日本人にとっても、非常に残念です。


日本人の民族性を示す用語に関する後書

この報告は、「X系日本人」という方式によって、それぞれの日本人のそれぞれの民族性を示す。この用語を使う理由は簡単である。日本の諸民族集団を中心とするものではなく、むしろ日本人の多民族性を強調する積もりである。だから、国籍を名詞にしながら民族性を形容詞にしることにしたり、ある人の国籍をその人の民族性で修飾する訳である。

この用語方式は、例えば、多民族国家としての日本にいるアイヌ系日本人にとっては、「アイヌであること」(つまり、アイヌ民族に所属すること」よりも「日本人であること」(つまり、日本国籍を有すること)の方が基本的である、ということを意味する。もしこの報告の焦点を民族集団にすれば、ある人のある民族との所属(つまり、その人の民族性)を指す言葉が名詞になり、所属されている国家(つまり、その人の国籍)が形容詞になる。従って、「アイヌ系日本人」は「日本人の一種」を示すが、「ソ連のアイヌ」は「アイヌの一種」を指す。また、世界的な見地から「アイヌ」だけをいえば、日本とソ連を跨る特定の民族を意味することもある。

「特定の民族」といっても、「同質性」がある訳には行かない。在日大和系日本人さえ「単一民族」ではない。「民族」というのは、これほど定義しづらい幻想のような概念であるから。「国籍」の方が定義し安いし、日本も含む多民族国家には「民族性」より基本的な機能を果たす、と私が思う。しかし、「国籍」の基本性を強調しながら「民族性」の重要性も認めなければならない。そして、両方を区別しながら、いずれかによる有らゆる差別を撤廃しなければならない、とも私が深く信じている。