日本語訳による部落問題の抹消

誤りや認識不足は検閲ほど恐くない

ウェザロール ウィリアム

初版:部落, 1993年3月 (第45巻, 第3号, 通巻561号), 23-40頁

再販:成澤榮壽 (編), 表現の自由と部落問題
京都:部落問題研究所, 1993 (293頁), 88-109頁

This article was originally written and published only in Japanese for Buraku Mondai Kenkyujo [Buraku Problems Research Institute (BPRI)] in Kyoto.

The eradication of the buraku problem in Japanese translations
Errors and lack of awareness not as frightening as censorship
By William Wetherall

A version of this article was first published as
"Nihongo yaku ni yoru buraku mondai no massho:
Ayamari ya ninshikibusoku wa ken'etsu hodo kowakunai"
[The eradication of the buraku problem in Japanese translations:
Errors and lack of awareness not as frightening as censorship] in
Buraku, 45(3)561, pages 23-40

The above article was republished as is in
Narusawa Eiji (editor)
Hyogen no jiyu to buraku mondai
[Freedom of expression and the buraku problem]
Kyoto: Buraku Mondai Kenkyujo, 1993 (293 pages), pages 88-109

The article was also orally presented at Kyoto Hall on 29 July 1993 at BPRI's 42nd National Buraku Problems Summer Seminar.


目次

始めに
1.    『ザ・ジャパネーズ』
2.    『将軍』
3.    『ヤクザ』
4.    『ライジング・サン』
文献

第42回全国部落問題夏期講座のレジメ


始めに

アメリカで盛んになっているPCは、political correctness の略で、その運動は人種、民族、性などの想像上の差による偏見をただすことを目指している。しかし、その精神は、イデオロギー上に「誤っている」歴史観や「足りない」問題意識、または「差別的な」発言や行動などに対する態度は異常に偏狭で、徹底的に抑制しなければ気が済まない、いわば「政治的妥当性」よりも「政治的潔癖性」のほうに囚われているココロである。極端なPC主義の最も恐れるべき結果は、圧力団体、過激派などからの攻撃性の強い批判、抗議、デモ、糾弾、暴力、テロなどを避けるためには、PC運動の要求を満たさないと思うことを事前に言わない、書かない、発行しない、放送しない、よく言えば「自粛」、悪く言えば「自己検閲」のことである。

日本では、部落解放同盟などによって行われる糾弾とその副作用は、アメリカのPC主義者に採用される手段とその結果によく似ている。それぞれをめぐる「表現の自由」論争も両国では基本的に同じである。部落解放同盟のような団体にとっての論点は、その団体が抱くイデオロギーに合わない思想、意見、用語などはどこまで「自由」の名で共存してもいいのか、ということである。

長年の糾弾の影響は、積極的な実績が見えてきたが、逆効果も出た。前者は、被差別部落の生活状態は、どの面から見ても、かなりよくなったことである。後者は、日本にいる翻訳者、編集者、出版者などの殆どが「部落は恐い」と思い込んでいることである。このために、例えば英語の原文に登場する burakumin の話は、それほど誤っていない場合にも、日本語版から消えてしまうことが実に多い。限られた紙面にその代表的な例だけを紹介することにする。


1.    『ザ・ジャパネーズ』

日本で最も影響力のある出版社の一つ、文藝春秋から1979年に日本語訳で出版されたエドウィン・ライシャワーの『ザ・ジャパニーズ』は、読者に断わりなしにさまざまな検閲を受けた。その最も大きな「修正」は、歴史的な eta と今日の burakumin についての話を含む半ページにわたる二段落が完全に削除されてしまったことである。部分的に消されたり、書き換えられたりしたところも少なくない。

部分的に削除された一例は Isolation (孤立)という第3章にある。「アイヌは現在の諸人種がまだはっきりと分化されてなかった時代からの昔の人型を代表するかも知れない」といった、アイヌの起源を進化論的に論じた部分が日本語版から消えた。この原文は、次の通りである。カットされたところが二本線でアンダーラインされている。[n1]

    Actually the Japanese islands form a sort of cul-de-sac into which various peoples drifted over time and, finding no exit, were forced to mix with later comers. Among these were the Ainu, who may represent an early type of man dating from a period before the modern races became clearly differentiated. In any case, they combine some characteristics of the white race, notably their hairiness of face and body, with characteristics associated with other races. Thus the Ainu may account for the somewhat greater hairiness of some Japanese as compared to most other members of the Mongoloid race.

これは下記のような日本語に訳された。[n2]

あえていうなら、日本列島というのは、いわば一種の袋小路といってもよく、さまざまな人間集団が長期にわたってたどりつき、出口がないままに定着、遅れてやってきた集団と混じりあうことを余儀なくされたと考えられる。その一つはアイヌで、体毛の多い点では、白色人種の特色を有し、他人種の特色をも兼ね備えている。日本人の中に、他の蒙古人種より多毛な人が散見されるのは、あるいはアイヌがその理由であろう。

同じ章においては、Ainu(アイヌ民族)や Koreans(在日韓国・朝鮮人)の話に続いて「過去には eta も含めてさまざまな呼称で知られた、今は普通 burakumin と呼ばれているアウトカースト[注:インドの四姓外、徳川時代の士農工商外、などの賎民]のような集団」が、「日本人の均質性の顕著な例外の一つ」として、次のように紹介された。[n3]

    One extraordinary exception to Japanese homogeneity, however, deserves mention. This is the survival from feudal times of a sort of outcast group, known in the past by various names, including the term eta, but now usually called burakumin, or "hamlet people," a contraction from "people of special hamlets." This group, which may number about 2 percent of the population, probably originated from various sources, such as the vanquished in wars or those whose work was considered particularly demeaning. Clearly they included people engaged in leather work or butchery, since the Buddhist prejudice against the taking of all animal life made others look down on such persons, though, it should be noted, not on the butchers of human life in a feudal society dominated by a military elite.

    The burakumin have enjoyed full legal equality for more than a century, but social prejudice against them is still extreme. While they are in no way distinguishable physically from the rest of the Japanese and are not culturally distinct except for their generally underprivileged status, most Japanese are loath to have contact with them and are careful to check family records to insure that they avoid intermarriage. In the highly urganized Japan of today, the burakumin are becoming progressively less recognizable, but their survival as an identifiable group is a surprising contrast to the otherwise almost complete homogeneity of the Japanese people.

しかし、この二つのパラグラフは、事実性や共感性の両面から見てそれぞれに70点や90点を付けても甘くないのに、日本語版から完全に削除された。[n4]

Hierarchy(ヒエラルキー)に関する第16章には、イデオロギー的に書き換えれれた部分がある。原文は次のようである。単線のアンダーラインで示されている部分は、日本語版ではイデオロギー的に書き換えられた。二本線でアンダーラインされている部分は、日本語版では削除された。[n5]

    Class distinctions can exist even in the absence of a nobility and legal class lines. ... The Japanese group, unlike the Indian caste, is normally not made up of people of the same status and function, but of people of different function and status. The two major exceptions to this rule, as noted earlier, are the eta or burakumin and possibly the recent Korean immigrants, but these account for only a tiny part of the population. ...

    ...

    ... At the other end of the scale, great cultural homogeneity and a relatively small and uniform geographic environment have meant that there are no large ethnic or regional groups of "underprivileged" persons, as in the United States. The burakumin and the Koreans offer some problems, and there are a few other people who do not make the grade and become skid-row derelicts or drift into crime. ...

日本語版では下のようになった。[n6]

 たとえ貴族が存在せず、法制上の階級差がなかったとしても、階級の区別はむろん厳存しうる。・・・インドのカーストとは異なり、日本的集団というのは、さまざまな機能や地位の人間から成り立つもので、同一の機能や地位の人間によって構成されてはいない。

 むろん例外はある。一つはいわゆる未解放部落民である。いま一つは比較的新しく日本にやってきた朝鮮人である。これについては、すでに述べた。しかし彼らとても、全体の中ではごくごく少数にしかすぎない。

 ・・・

 他方の極では、アメリカとはちがい、文化的は均質性の高さと、地理的環境の画一性から、「恵まれない」民族集団や、地域集団の存在はほぼ皆無に近い。

 とはいえ、なかには脱落してドヤ街に身を落としたり、犯罪の道を歩む者も、少数ながらいないではない。 ・・・

『ザ・ジャパニーズ』の日本語版はこれほど検閲されたのにもかかわらず、帯にも訳者あとがきにも「完訳」と主張された。部落解放同盟は、原書にある部落について書かれた箇所を「差別文章」として検討したうえ、「確認・糾弾会を含めた、対策を出すことにした」。[n7]


2.    『将軍』

1980年に発行されたジェームズ・クラベルの小説『将軍』の日本語版は二段階にわたって検閲を受けた例として面白い。主人公のブラックソーンという安針は、関ヶ原の戦の直前に一緒に日本に流されてきた船乗りが住んでいる場所を、江戸の最も貧しいところで発見して、その環境の過酷さと彼らの生活の惨めさに非常に強い打撃を受けた。クラベルがこの状況を詳しく描いたが、その描写の中では、次のように eta についてのべられた。[n8]

    Blackthorne said, "A slaughterhouse! A slaughterhouse and tanning! That's . . ." He stopped and blanched.

    "What's up? What is it?"

    "This is an eta village? Jesus Christ, these people're eta?"

    "What's wrong with eters?" van Nekk asked. "Of course they're eters."

    Blackthorne waved at the mosquities that infested the air, his skin crawling. "Damn bugs-they're rotten, aren't they? There's a tannery here, isn't there?"

    "Yes. A few streets up, why?"

    "Nothing. I didn't recognize the smell, that's all."

    "What about eters?"

    "I . . . I didn't realize, stupid of me. If I'd seen one of the men I'd've known from their short hairstyle. With the women, you'd never know. Sorry. Go on with the story, Vinck."

    "Well, then they said --"

    Jan Roper interrupted, "Wait a minute, Vinck! What's wrong, Pilot? What about eters?"

    "It's just that Japanese think of them as different. They're the executioners, and work the hides and handle corpses." He felt their eyes, Jan Roper's particularly. "Eta work hides," he said, trying to keep his voice careless, "and kill all the old horses and oxen and handle dead bodies."

    "But what's wrong with that, Pilot? You've buried a dozen yourself put 'em in shrouds, washed 'em -- we all have, eh? We butcher our own meat, always have. Ginsel here's been hangman. . . What's wrong with all that?"

    "Nothing," Blackthorne said, knowing it to be true yet feeling befouled even so.

感動をかなり与えるこの場面は、日本語版の初版から第8刷までには、下のように省略された。[n9]

 ブラックソーンは言った。「ここは屠殺小屋だ。屠殺小屋と、皮なめしの場所だ・・・・・・つまり・・・・・・」顔色が変わった。

 「どうしたんだ」

 「ここは、えたの部落だ、ここの住人はえただぞ」

 「それはどうした」ヴァン・ネックが聞いた。

 ブラックソーンは、ぶんぶんいっている蚊を手で払った。皮膚がかゆくてたまらない。「日本では、えたが皮はぎをやっている。馬や牛を屠殺し、皮をはぐんだ」

 「だけどよ、そのどこが悪い、水先案内。おれたちだって、肉を食うために屠殺しているじゃねえか。このギンセルなんか、絞首刑の執行人だったんだぜ・・・・・・やつらのどこがいけない」

 「べつに・・・・・・」ブラックソーンは言った。彼の言うことは正しいのだが、なんとなく汚ならしい気分になる。

これほど短くなったのにもかかわらず、ブラックソーンの発言に対する反差別精神がよく残されている。しかし、これも第9刷りから削除することになった。その空白はきれいに詰められた。この検閲の説明については、いや、何かがカットされたという事実さえに関しても、一言も触れられなかった。エタの話が全く出なくなった第9刷は、1981年4月1日に出版されたが、こうした圧力に負けた検閲によって誰かがエープリル・フールに引っかけられたであろうか。

ある新聞記事によると、『将軍』を摘発したのは、広島県下のある町の公民館女子職員であった。TBSブリタニカは、同町の教育委員会から申し入れを受けたり、また広島県の教委員会、総理府、法務省などの意見を聞いた上で、すでに購入ずみの読者に対して新聞公告によって、改訂版と取り替えるための郵送料を「お願い」した。[n10]

著者も実験として、問題の下巻をまだ販売していた店で一冊を買って、出版社に送ってみた。「このたびは弊社刊『将軍』(下巻)の回収措置に際し、ご協力いただき、まことにありがとうございました」、と書かれていた手紙と、郵送料として同封されていた350円の切手を受け取った。公告が「同和問題にかかる不適切な記述」と訴えたが、どの表現がどう「不適切」であったかの説明は、公告にも、改定版にも、手紙にも、なかった。ただ圧力に負けて削って陳謝するだけをした。

部落解放同盟の部落研究所が発行している Buraku Liberation News の記事は、クラベルの eta の言葉遣いとブラックソーンらの言動が今日の部落に対する差別を悪化させる恐れがあること、それに eta に関する記述には歴史上の誤認があることを指摘しながら批判ばかりして、その場面に表われた迫力のある反差別精神を評価しようともしなかった。[n11]

英語には throw out the baby with the bath water という表現がある。「貴重なものを無用なものといっしょに捨ててしまう」を意味する。『将軍』の日本語版の検閲によく当てはまる表現らしい。


3.    『ヤクザ』

日本の暴力団と政治家や右翼との甘い関係を鋭く摘発する本として、ディビット・E・カプランとアレック・デュブロ共著の『ヤクザ』の日本語版は、非常に難産であった。数年のあいだに、数十カ所の出版会社に断わられた。そして、出版してくれる勇気のある出版会社がやっと見つかったのにもかかわらず、部落問題などに関する箇所はかなり「修正」されるようになった。その一つは次のように原文に出た。[n12]

    Although the early tekiya were made up largely of the same types of misfits as their gambling cousins, the bakuto, they also attracted the members of Japan's ancestral class of outcasts. These were the burakumin, or 'people of the hamlet,' who comprised a separate caste somewhat similar to the untouchables of India. The burakumin were an arbitrary class, comprising largely those who worked with dead animals, such as leather workers, or in 'unclean' occupations such as undertaking. Discrimination directed against the burakumin was cruel and relentless. They were popularly referred to as eta (heavily polluted) or hinin (nonhuman). Just as the samurai were able to abuse the commoners, so were the commoners allowed to torment the burakumin.

    ...

    In relation to the underworld, the system seemed to feed on itself. Under the Tokugawa regime, those who violated laws or customs could be relegated to the status of eta or hinin; some tekiya members, therefore, already were branded as nonhuman. At the same time, many born into burakumin families joined the tekiya gangs, which provided a path out of abject poverty and disgrace. Peddling offered the burakumin one of the few opportunities to leave their birthplace, where they would forever be known as outcasts. It was a significant pool of potential outlaws; by the end of the Tokugawa era in 1867,the burakumin numbered about 400,000 of Japan's 33 million people.

    Legal discrimination against the burakumin was officially ended in 1871 by a government decree. However, the abuse and victimization of these people remains to this day, and continues to drive substantial numbers of burakumin into the hands of the yakuza.

日本語版は下の通りである。[n13]

 自分たちの縁者であるバク徒と同じく、初期の頃のテキヤを主に構成していたのは、社会不適応者であったが、彼ら以外に日本伝来の追放者の階級の出身者の関心も引いた。これらの人々は“小村落の人々”という意味の部落民たちで、インドの不可触民にも似た隔離された階級の人々であった。部落民は恣意的に設定された階級で、皮革労働者などの動物の死骸を扱う人々や、葬儀関係などの「不浄な」職業に就く人々により成り立っていた。部落民に対する差別は残酷で容赦のないものだった。彼らは一般的に「穢多」とか「非人」と呼ばれていた。ちょうどサムライが平民を虐待することが許されていたのと同じように、平民は部落民を苦しめることが許されていた。

 ・・・

 徳川幕府のもとでは、法や監修を破った者は、非人の地位に落とされることもあった。それ故にテキヤの中には、すでに人間に非ずと烙印を押されているものもいた。また部落民の家族に生まれた者には、みじめな貧困と恥辱から抜け出す道を供給してくれるテキヤに加わるものもいた。テキヤになって物を売り歩くということは、部落民にとって、そこにいれば永遠に追放者であるとの烙印を押される生誕地から離れることのできる数少ないチャンスの一つだった。ちなみに一八六七年の徳川時代の終りの時点で、部落民は日本の人口三三〇〇万人のうち四〇万人もいたのである。

 部落民に対する法的な差別は、一八七一年の解放令により公式的には終了した。しかし、これらの人々に犠牲を強い、虐待することは今日も続いている(部落差別と闘うことが今日なお重大な国民的課題となっている所以である――訳者注)

これより量的にも質的にも検閲されたもう一つの箇所は、原文では次の通りである。[n14]

    . . . The ranks of the yakuza are also filled with vast numbers from two groups that have suffered relentless discrimination in today's Japan: the nation's 676,000 ethnic Koreans and its two to three million burakumin -- the members of Japan's ancestral untouchable class described earlier. This issue is sensitive enough that police will not officially estimate the numbers of these groups within the yakuza. But unofficially, police believe that in the Yamaguchi-gumi, for example, burakumin comprise some 70 percent of the membership, and Koreans 10 percent.

    Similarly, although to a lesser extent, many of the small numbers of resident Chinese are also driven into the yakuza. For these minorities, for the bosozoku, and for the nation's poor, the gangs can easily seem like the only way out of an otherwise miserable life. . . .

これは日本語版ではこのようになった。[n15]

 ・・・ヤクザの組織には今日の日本でひどい差別を受けているが故にヤクザになる者も多くいる。こうした人々や暴走族、貧しい者たちにとって、ヤクザになることは、ヤクザにならなければ送らざるをえなくなる惨めな生活から抜け出す唯一の手段であるかのように思える。

在日韓国・朝鮮人、在日中国人、および部落出身者に関する統計などの具体的な話のみならず、これらの少数者に対する集合レッテルさえも削除された。訳者あとがきには、このような検閲を正当化しようとするかのように、次のように説明した。[n16]

 翻訳にあっては、以下の九点に配慮した。

 ・・・

(9)学術的な説明上必要であっても、日本の社会では誤解を生じる恐れのある部分はごくわずかであるが、著者との合意に基づき取除いた。


4.    『ライジング・サン』

1990年10月30日、東京にある外国人記者クラブで行われた、『日本/権力構造の謎』著者のカレル・ヴアン・ウォルフレンと部落解放同盟書記長の小森龍邦とのあいだの公開討論会の目的の一つは、日本のマスコミや出版業界、部落解放同盟も含める部落問題について、以前より自由に報道できる雰囲気を醸成することであったが、この討論以降、糾弾事件も自己検閲も相次いで起こっている。上記の『ヤクザ』はその一例である。しかし、これより最適かつ皮肉な例は、「全米ベストセラー第1位の超話題作」として宣伝された、「注目の日米経済摩擦ミステリ」として「センセーショナルな反響を呼ぶ」マイケル・クライトン著の『ライジング・サン』である。

この大衆小説の日本語版には削除や書き換えが実に多い。スミス警部という主人公は、一人称のナレーションの中で、テレサ・アサクマという女性の不自由な腕については、こう述べている。[n17]

    ... I saw that her right hand was withered, ending in a fleshy stump protruding beyond the sleeve of her jeans jacket. It looked like the arm of a Thalidomide baby.

これは日本語版では次の通りになった。[n18]

 ・・・右腕は肘のところで曲げ、脇にくっつけたままにしている。そこでやっと気がついた。デニムのジャケットの袖から出たテレサの右手は、肉の棒のようになっていたのだ。

このように削除された「差別用語」も幾つかある。例えば、原文にはこのように書かれている。[n19]

    "My friends seem to think it was personal. A ninjozata, a crime of passion. Involving a beautiful, kichigai woman and a jealous man."

日本のマスコミにもよく使われる「クレージー」のつもりで著者が利用した、マスコミを含める世間に「差別用語」として示された kichigai は、訳書では次のようになった。[n20]

 「日本の友人たちは、個人的な事情ではないかと思っているらしい。チジョウノモツレ、というやつだよ。美人だがヘンタイの女と、嫉妬深い男とのね」

部落出身者の差別体験に触れたところも大きくカットされたり、書き換えられたりした。テレサは、自分が負っている二つの荷の重さを、次のようにスミスに説明している。[n21]

    "You know what the burakumin are?" she said. "No? I am not surprised. In Japan, the land where everyone is supposedly equal, no one speaks of burakumin. But before a marriage, a young man's family will check the family history of the bride, to be sure there are no burakumin in the past. The bride's family will do the same. And if there is any doubt, the marriage will not occur. The burakumin are the untouchables of Japan. The outcasts, the lowest of the low. They are the descendants of tanners and leather workers, which in Buddhism is unclean."

    "I see."

    "And I was lower than burakumin, because I was deformed. To the Japanese, deformity is shameful. Not sad, or a burden. Shameful. It means you have done something wrong. Deformity shames you, and your family, and your community. The people around you wish you were dead. And if you are half black, the ainoko of an American big nose . . ." She shook her head. "Children are cruel. And this was a provincial place, a country town."

この話は日本語版では下のように縮められた。破線でアンダーラインされているところは、カットされた部分の代わりに書き加えられた。[n22]

 「日本にはね。みんな平等であるはずのあの国には、根拠のない差別がいろいろあるの。無理解がひどい差別を生んでるのよ

 「知らなかった」

 「この右手のことでも、ずいぶんいじめられたわ。そのうえ、半分黒人で、日本人離れした顔だちをしていたら・・・・・・」テレサはかぶりをふった。「子供って残酷よ。しかもあそこは、田舎町だった・・・・・・」

このように『ライジング・サン』を検閲したのは、『日本/権力構造の謎』を出版してからすぐ部落解放同盟から厚い抗議書を受け取った早川書房である。早川書房は上記の箇所については「コメントはありません」といったファクスで取材を断わった。しかし、部落解放同盟の小森は、私のアシスタントに尋ねられた質問を、手紙で次のように答えてくれた。[n23]

Q1 このようなじ自己検閲に対しては、どの様なお考えをお持ちでしょうか?
A1 自己検閲」の意味が、早川書房が著者、訳者の了解をとることなく勝手に原文を省略、変更したことを意味するのであれば、許されないことです。当然の事ながら省略、変更が必要な場合は著者、訳者と十分な論議を行い、双方納得の上で行なうべきです。
Q2 早川書房は[上記の箇所]をオリジナルの通りに翻訳すべきだったのでしょうか?
A2 原文の通りに翻訳すべきだと思います。特に[その後者の箇所]では、悪しき仏教の業思想(輪廻観に基づく差別思想)に多くの日本人が侵されていることが読み取れますが、訳文ではそれが表現されていません。また、原文では日本社会の差別のいびつさが「恥」との言葉で自虐的な訴えによって表現されているように思いますが、訳文ではその微妙な表現が欠落しています。
Q3 早川書房は小森様が書記長をなさっている部落解放同盟にコンタクトを取り、解放同盟の意見を求めるべきだったのでしょうか?
A3 意見を求める必要はありません。厳密に言えば早川書房の自由です。「意見を求める」という場合、私は2つのイメージが涌きます。1つは俗に言う検閲的な意味です。解放同盟とトラブルを起こさないために「意見を求める」というものです。2つ目は純粋に「この文章で被差別者が傷つくことはないか」を案じて当事者の意見を求めるというものです。前者は恥ずべき態度でありますが、後者は真撃な考えとして共鳴できる生き方です。

『ライジング・サン』の訳者あとがきによると、「早川浩社長が渡米され、著者と本書の翻訳の方針について相談された」ということである。信頼性のあるさまざまな情報源を取材したところで、burakumin の話は日本語版に出ない方が無難だ、というような意味を持つ言い方で早川が著者に述べたそうである。この時点では、著者は、適切に書き換えてもいい、という風に承諾したらしい。

もしこれが事実ならば、小森の定義による「自己検閲」にはならない。しかし、早川書房と二十年も付き合いをしてきた著者は、『日本/権力構造の謎』をめぐる部落解放同盟とのトラブルに関しては、何も知らなかったようである。そうだとすれば、小森が指摘した「十分な論議を行ない」という条件には満たされていなかったことになる。

しかし、「双方納得の上」だけで原文を省略したり変更したりすることは「自己検閲」でなくても、早川書房がとった行動とそれに反映されている態度は、「俗に言う検閲的な意味」を含んでいるということは間違いない。結局、早川書房には、部落解放同盟との衝突が最近あって、もう一度接触する気がなかった。部落解放同盟と連絡せずに、専門家にも聞かずに、ただ原文に出た burakumin の話をなるべく消すように自ら著者に願ったことは、やはり純粋な自己検閲と見てもいいと思う。

早川書房の検閲精神は今も元気そうである。二十年ほどのあいだに Time という週刊誌の特派員として日本から報道したエドウィン・M・ラインゴルドは、定年になった数年前にアメリカに戻って、そして Chrysanthemums and Thorns (The Untold Story of Modern Japan) という、日本の素顔を実によく描写した本を書いた。[n24] たまたま知り合いである早川社長も関心を持って、日本語版を検討した。ところが、Imports, Outcasts, Strangers, Stereotypes と題にした第9章を数頁ほど占めた部落問題や部落解放同盟の糾弾などの話をカットすること、という条件を付けたようである。これは日本のPC主義の正体である。

(敬称省略)


文献

  1. Edwin O. Reischauer, The Japanese, Charles E. Tuttle (Tokyo), 1979 [Harvard University Press (Cambridge), 1977], 34頁
  2. エドウィン・O・ライシャワー(國 弘正雄訳)、ザ・ジャパニーズ、分 藝春秋、東京、1979、44頁
  3. 前掲書中(注 1)に 36頁
  4. 削除されなければ、日本語版(注 2) の46頁に載っていた筈である。
  5. 前掲書中(注 1)に 160-161頁
  6. 前掲書中(注 2)に 164-165頁
  7. 部落解放同盟大阪府連合会編、あい つぐ差別事件・1980、解放出版 社(大阪)、104頁
  8. James Clavell, Shogun (A Novel of Japan), Dell (New York), 1976 [Atheneum Publishers, 1975], 869-870頁
  9. ジェームズ・クラベル(綱淵謙錠監 修、宮川一郎訳)、将軍、TBSブ リタニカ、1980、全3冊、下巻 100-101頁。初版は1980年10月15日、第 8刷は1980年12月20日に出版された。
  10. 高木政幸、「ベストセラーの部落差 別」、朝日新聞、1981年3月30日、朝刊、3頁。公告は、1981年3月30日、 朝刊、23頁。
  11. Buraku Liberation News, No. 4, 1981, 7-8頁
  12. Alec Dubro and David E. Kaplan, Yakuza, Futura Publications (London), 1987 [Addison-Wesley (New York), 1986), 27-28頁
  13. ディビット・E・カプランとアレッ ク・デュブロ、ヤクザ(ニッポン的 犯罪地下帝国と右翼)、第三書館( 東京)、1991、29-30頁
  14. 前掲書中(注 12)に 180頁
  15. 前掲書中(注 13)に 201頁
  16. 前掲書中(注 13)に 441-442頁
  17. Michael Crichton, Rising Sun, Alfred A. Knopf (New York), 1992, 182頁
  18. マイケル・クライトン(酒井昭伸  訳)、ライジング・サン、早川書房 (東京)、1992、276頁
  19. 前掲書中(注 17)に 194頁
  20. 前掲書中(注 18)に 295頁
  21. 前掲書中(注 17)に 261頁
  22. 前掲書中(注 18)に 395頁
  23. 芝山香が「アメリカ人ライターのアシスタントをしている者」として衆議院議員小森龍邦に宛てた1992年7月13日付の手紙と、小森が芝山に宛てた1992年8月12日付の返事からの抜粋である。
  24. Edwin M. Reingold, Chrysanthemums and Thorns (The Untold Story of Modern Japan), St. Martin's Press (New York), 1992

経歴紹介 (1993年1月現在)

ウェザロール ウィリアムは、1941年サンフランシスコ市で生まれた。1975年に日本に移民し、1983年に永住権を取った。1982年カリフォルニア大学バークレー校で『古代日本における殉』という論文を提出して博士号を取得した。以降、ジャーナリスト、研究家、教師などとして活動している。小説は、日本語の短編を翻訳したこともあるし、自分のものを英語で書いたこともある。国際教育振興会の教師でありながら、国立精神保健研究所の客員研究員や日本自殺予防学会の役員として自殺の研究もしている。少数民族や大衆文学なども研究している。


「検閲」やタブーは認識不足よりこわい

第42回全国部落問題夏期講座のレジメ

ウェザロール ウィリアム

第42回全国部落問題夏期講座・1993 (7月29-30日)
京都:部落問題研究所, 1993, 10-11頁
発表:京都会館、1993年7月29日

"'Ken'etsu' ya tabuu wa ninshiki busoku yori kowai"
['Censorship' and taboos more frightening than lack of awareness]
42nd National Buraku Problems Summer Seminar 1993
Kyoto: Buraku Problems Research Institute, 1993, pages 10-11
Presentation: Kyoto Hall, 29 July 1993

アメリカで盛んになっているPCは、political correctness の略で、その運動は人種、民族、性などの想像上の差による偏見をただすことを目指している。しかし、その精神は、イデオロギー上に「誤っている」歴史観や「足りない」問題意識、または「差別的な」発言や行動などに対する態度は異常に偏狭で、徹底的に抑制しなければ気が済まない、いわば「政治的妥当性」よりも「政治的潔癖性」のほうに囚われているココロである。極端なPC主義の最も恐れるべき結果は、圧力団体、過激派などからの攻撃性の強い批判、抗議、デモ、糾弾、暴力、テロなどを避けるためには、PC運動の要求を満たさないと思うことを事前に言わない、書かない、発行しない、放送しない、よく言えば「自粛」、悪く言えば「自己検閲」のことである。

日本でも、国会、教室、マスコミなどの公式な場では、いや、非公式な場でも、口にしない方が「常識」であることが沢山ある。裕仁の戦争責任、芸能人の国籍や民族性などに触れることはよく知られているタブーである。あるいは、いわゆる「差別用語」の代わりに、人権を守る運動団体に好まれている言葉使いにすることもよくある。

部落解放同盟などによって行われる糾弾とその副作用は、アメリカのPC主義者に採用される手段とその結果によく似ている。それぞれをめぐる「表現の自由」論争も両国では基本的に同じである。部落解放同盟のような団体にとっての論点は、その団体が抱くイデオロギーに合わない思想、意見、用語などはどこまで「自由」の名で共存してもいいのか、ということである。

長年の部落解放運動の影響は、積極的な実績が見えてきたが、逆効果も出た。前者は、被差別部落の生活状態は、どの面から見ても、かなりよくなったことである。後者は、その「糾弾路線」が日本にいる翻訳者、編集者、出版者などの殆どが「部落は恐い」と思い込んでいることである。このために、例えば英語の原文に登場する burakumin の話は、それほど誤っていない場合にも、日本語版から消えてしまうことが実に多い。

英語や日本語の本を翻訳するとき、しばしば「検閲」(原文を改竄することに慣れた編集者によって「修整」と呼ばれている)が行われる。ノンフィクションや純文学と同じように、大衆文学も英語から日本語へ翻訳されることが多い。こうして良し悪しも含めて、日本語を読む人は原文とは異なる翻訳を読む機会が多くなる。エドウィン・ライシャワーの『ザ・ジャパニーズ』、ジェームズ・クラベルの歴史小説『将軍』、ディビッド・カプランとアレック・デュプロの『ヤクザ』、マイケル・クライトンの推理小説『ライジング・サン』、またはピーター・タスカの小説『メルトダウン/日米同時崩壊』などの日本語版から、部落民のような社会的少数者や、在日朝鮮人、在日中国人に代表される少数民族の話が、省略されたり、削除されたり、あるいはイデオロギー的に書き換えられたりしている。そして、このような「検閲」は、日本の出版業界では普通のとこである。

早川書房が1992年に出した超ベストセラー『ライジング・サン』の日本語版に見える自己検閲に関しては、部落解放同盟書記長の小森龍邦が、「『自己検閲』の意味が、早川書房が著者、訳者の了解をとることなく勝手に原文を省略、変更したことを意味するのであれば、許されないことです。当然の事ながら省略、変更が必要な場合は著者、訳者と十分な論議を行い、双方納得の上で行なうべきです」、と述べた。しかし、双方納得の上でも、英語の原文に出た burakumin の話を日本語版から削除してもよいのか。